October 25, 2020

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 このところ偶然にもエロチックな映画を取り上げるのが続いたところで、すっかり思い出した。


 幼少の頃から映画のエロいシーンには釘付けになっていたことを。

 そしてテレビの予告編にすらドキドキしたことを(笑)。

 数少ない情報をより分けるようにして思春期の子供たちはエロスに飛びついたものだった。


 その映画のひとつがカリギュラだった。

 今、熟年などの、それこそいい歳の年齢の人であれば、「カリギュラ」と聞いてこの映画に思い当たらない人はいないだろうと思う。

 悦楽に溺れる例え、その淫蕩の乱用として、「カリギュラのように」と言ってもきっと通じるはずだ。

 確か「あらゆるタブーを破る」というのが映画宣伝の触れ込みだったと記憶している。


 その意味では当時の日本に大いに影響を与えた映画のひとつだと思う。



 話はローマ帝国時代の話。

 肉欲と快楽に耽ったカリギュラという人物を描いた映画だ。

 ローマ皇帝の孫だった何か、とにかく権力はある男で、自由奔放に悦楽を味わおうとした。

 それも徹底した快楽の追及だった。


 エロスは残忍さにも通じる。

 セックスで相手が悲鳴を上げる被虐感というのはサディズムに通じることがある。

 そうした残酷描写もあった映画だ。


 そして同時に、それがローマ帝国の絶頂期であり、衰退と期を逸にしていたという話である。



 その後、ずっと後世になって、「西太后」という映画が鳴り物入りで公開されたことが記憶にある。

 我々男のほとんどはそれをカリギュラの「二番煎じ」と感じたと思うし、そもそもそれは中国の話だ。


 この現代でもリアルに共産党が傍若無人の振る舞いをしているのだから、まるで洒落にもならず、興味を引くことはなかった。

 カリギュラを越えたよりリアルでショッキングな描写がされているとされながら、あまりヒットはしなかったように思う。



 本作品の「カリギュラ」は、ペントハウス誌の社主が多額の金をかけて製作した超大作として日本でも話題になった。

 その宣伝もまたエロスを前面に出した挑戦的なものだった。

 そのコインの肖像が血の涙を流しているのも記憶に刷り込まれているほどだ。

 「血と情欲に汚れた歴史」と受け取られたのは間違いではなかったろう。


 当時の子供たちの間でも、テレビコマーシャルを通じ、ものすごいスケベな映画が日本にやってくるとたいそう話題になったものだ。

 これは「エマニュエル婦人」の後のことだったと思う。

 だから余計にまたも海外からそうした刺激的なものが上陸するのか、と、そんな印象から騒いでいたのだと思う。


 子供たちは、もちろんカリギュラを見るようなことはなかったが、そのテレビコマーシャルの怪しいムードというのは容易に理解できた。


 おそらく、その子供らのいくらかは、川端康成や谷崎潤一郎といった文学にエロスがあることをやがて発見し、その後の成長に大きな影響を与えたのだと思っている。


 これはまだ小学校低学年だったころの話だ。



 実際には海外では本作品は芸術作品なのか、それとも真正のポルノではないかと、大いにそのカテゴリーについて話題になったようだ。


 だが、日本ではチャタレイ婦人裁判などがあって、表現のためのエロスがどこまで許されるか、その表現の境界を論じる方向の方が強かった時代だったと記憶している。

 結果としてボカシが多くなり、映画カリギュラが本来は描きたかった権力者が流された狂気、快楽の追求などは薄められた。


 だから、今思えば、本来ならもっとこの作品の内容と質に目を向けてもよかったと思ったものだ。

 エロス表現というものなどは結局は受け手の問題なのであって、節度があろうとも強烈な印象を残すものもあるものだ。

 何も陰部さえ写せばいいというものではない。

 特に国境のほとんどなくなったネットの現在、それは多くの人に理解されていることだろう。



 後世のこの世になって、本作品の芸術性については改めて評価されればいいのにと、そう願って止まない。







(00:08)
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